1949年 滋賀県の北の端、余呉町で農家の次女として生まれました。
余呉町は、美しい自然に恵まれ「天女の羽衣」の伝説がある「よご湖」で有名なところです。
1964年 地元の県立伊香高校に入学しました。在学中生徒会長を経験し自治活動を熱心に指導してくれる先生にであいました。そしてクラブは吹奏楽部でフルートをやっていました。この頃フルートが大好きになり、「プロになれたらなあ」と夢を見たものです。
1967年 大阪逓信病院付属高等看護学院(NTT病院付属)に入学し3年間学んで看護婦(看護師)になりました。
1970年〜 12年間京都南逓信病院(現在のNTT京都病院)で働きました。看護婦の仕事は、肉体的にも精神的にも厳しい仕事でしたが、大好きな職業でした。いつも、「いい看護がしたい」と思って働いていました。看護の仕事を通して、人の命の大切さを実感し、人間らしい生活が保障される世の中をつくるために日本共産党に入党しました。
1973年 歌声運動や青年運動で今の夫と出会い結婚。翌年長女の誕生と同時に八幡市橋本に引っ越してきました。次女が2才になるまで夫の協力を得ながら子育てと看護婦の仕事を両立させてきました。「看護婦の親父がんばる。」でした。
  
 
1982年〜  大好きだった看護婦生活に終止符を打って、日本共産党から要請を受け八幡市議会議員に立候補し初当選。日本共産党の議席が4から5に増え八幡市議会紅一点となりました。1期目は、橋本にモーテルの建設計画があり、住宅入り口でのモーテル建設反対運動を住民のみなさんととり組み、建設を断念させることができました。
 今日まで過去に看護婦として働いていた特質を生かし、地域医療の充実、福祉の街づくり、誰もが安心できる介護保険制度、そして母親の願いである子育て支援、乳幼児医療無料制度の拡充や、教育条件を良くするために力を入れてきました。又、坂道が多く開発の多い橋本地域で、道路の改善や、住み良い街づくりに声を上げてきました。
 今は、安倍政権の暴走でくらしへの不安、平和への不安と怒りでいっぱいです。私は人の命が大切にされる政治をめざし、暮らしと平和を守るためにがんばっています。

 現在8期目を奮闘中、文教厚生常任委員会副委員長、日本共産党議員団代表をつとめています。議員として多くのみなさんの声を代表すること、市民目線で市政をチェックし、今度は府議会への挑戦を決意しています。
いまのよこ顔  地域では、世話やきおばさんかな?毎週水曜日「野菜市」のボランティアをやっていましたが、生産者の都合で休止。
 毎週土曜日の夜は、和太鼓サークルのお世話、月1回のオカリナレッスンは、発表会があると熱が入ります。忙しさに追われてちょっと追いつかないのが悩みです。
 夫が地域の町内会長であるためサイドでお手伝いをしたり、近所の皆さんとおしゃべりをしたり、最近では体力不足のため、意識して歩こうと努力中。あまり運動をやっていないので・・・
 
 
夫(NTT会社員)  町内会や、文化振興会など地域で世話役活動に熱心。パソコンのことならそれなりに相談に応じられます。年金者組合で「GアンドB」という歌う会を始めました。楽しそうです。昔から歌うことが大好きな人ですから。
長男(25歳)  私が議員になってから生まれた子です。近所のみなさんや多くの知人の支援を受けて育ちました。私が関わっている、サークル「どんど鼓」の子たち(今では、すてきな青年になっている)がよく「子守宅急便でーす。」と遊びに来てくれて面倒を見てくれました。今では我が家で一番背が高く大きく育ちました。
 和太鼓が大好きで、橘高校太鼓部で部長を経験、地域では「どんど鼓」のリーダーとして頑張っています。甥の面倒を上手に見てくれます。2010年成人式を迎えました。
2012年4月から社会人です。
別居ですが...
夫の父   八幡市内の特別養護老人ホームに入居しています。夫の両親は、我が家の3人の子育てに多大な援助をしてくれました。「熱がでた、夜勤だ、選挙だ」と言って、良く預かってもらいました。私たちが子育てと、仕事・議員活動を両立できたのも、夫の両親の援助抜きには考えられません。2008年11月夫の母は他界しました。とても気丈な人でしたが、病気には勝てませんでした。享年86歳でしたから、よく生きてこられたと思います。
長女  奈良の大和郡山市へ嫁ぎました。二人の子育てママ、サクソフォーン演奏家です。夫さんと一緒に音楽教室・「たんと」音楽宅配便演奏活動をしています。新婦人の小組「オカリナ教室」の指導もしてもらっています。
次女(看護師) 京都市内の病院で働きながら頑張るママさんナース。選挙の時は元気なアナウンサーとして活躍。
 
音楽鑑賞 おしゃべり  オカリナ 和太鼓